ノマオイ
言い訳満載な全日本モトクロス東北大会取材の記憶の記録。
金曜日、暑さ対策のグッズでも見ておこうかな、そんな感じで豊洲のビバホに向かって、エレベーター乗ろうとしたときだったと思う。左膝に痛みが走った。いや走りはしない。でも激痛だった。おかげで歩けもしなくなった。歩いたけどね。ひとまず2階のマツモトキヨシでサポーターを購入した。CWX共同開発の1番高いヤツ。薄々予感はあったのだ。前の月にOB会があって、宴会も朝食も座敷だったんで、胡座をかくわけだけど、ずっと左膝に違和感があった。このずっとというのは、実は30年くらいずっとで、でも、内に捻って少し落とすと、ポキッとなって、音が出れば解消…みたいな都合のいい違和感。でも、その数日はポキッがならずに、痛みがどんより蓄積していく感じだった。そして突然の激痛がやって来た。前回は木場のヨーカドーだった。中村友則がチャンピオンを取った年だ。文字通り? 痛みを引きずったままHSRで轢かれそうになったので、はっきりと覚えている。あれ以来の、溜まりに溜まったストレスがドンと来た。
原因はもっと昔の学生時代。当時はOB会じゃなくて一応現役なんちゃって部員として、M.I.T.M.C.C.でモトクロスさせてもらっていた。根津のアパートから部室に通うために買ったXLXで何を思ったのか伊豆の林道一人で走りに行って、下りのコーナーでズリッと転んでズザザザザって滑って行ったら、最後に倒木があったらしくてそこに踵が引っかかって、バイクと身体はさらに1メートルくらい滑って止まった。痛ってぇって叫んで見たら、右肩くらいのところに右足の裏が見えた。ブーツ底のaマークが見えたかどうかは覚えてない。しばし気絶した。で、気絶してても埒が開かないので、とりあえず恐る恐る立ってみたら、あれれ? 膝折れたんじゃないの? と思った割に立つことが出来て、でも一歩踏み出したらすぐにひっくり返って、今度は気絶こそしなかったけど、あまりの痛さにちょっと泣いた(笑)。仕方ないので片足ケンケンでバイク起こして、下りの押し掛けてエンジンかけて、今思うとホント馬鹿だけど、西伊豆のワインディング走って、沼津から東名乗って、田園調布のSのアパートまで行って、もう俺は動けないから根津まで送ってくれと頼んで、でも、クルマなんてないからSに運転してもらって、俺は後ろに乗って、つまりタンデムで都内を西から東に走って、根津のアパートに到着。ケンケンで階段上がってバタンと倒れて、モトパン脱いだら右膝が大袈裟じゃなくてスイカみたいに丸くなっていた。
翌日近所の日医大にタクシーで行ったら(あまりの痛さにほとんど寝れなくて、とりあえず朝まで待って、アパートの階段ケンケンして下りたらもう限界で、根津神社抜ければ日医大すぐなんだけど、絶対無理と思ってタクシーで向かった。「すごく痛いんで早めにお願いします。」で、結構待たされて、やっと診察室に入ってスエット捲くって膝を見せたら、「なんで救急車呼ばなかったの?」と言われた。そうか、伊豆の林道で後ろから走ってきたライダーに救急車呼びましょうか? って聞かれたけど、こんな山の中まで救急車が来るとは思えなかったし、もし麓まで来てくれたとしても、そこにバイク置きっぱする気にはなれなかったので、自走して戻ったのだった。Sのアパートでも救急車呼ぼうというアイディアは浮かばなかったなぁ。なんでだろう。たぶん馬鹿だからだ。たぶんではなくて間違いなく馬鹿だ。でも、正直言うと、根津のアパートから病院向かおうとしたときは、正直救急車のことも考えた。近いんだから迷惑がられるよなと思って遠慮したのだ。日医大はボクの大学の指定医療機関とかになってて、治療費かからないみたいな制度があった。今思うと、それで根津まで帰って日医大に行こうって考えていたのかもしれない。ちなみにタクシー代くらいは持っていた。で、まぁ、お医者さんが、ドリフのコントでしか使わないような注射器を出してきて、膝に溜まった血を抜いてくれて、結局3本半だか血が溜まってて、もう、血と一緒に痛みが出て行くみたいな感じで、ちょっと恍惚としたの覚えてる。ところがここから当時の医療技術はすごいというか、たいしたことないというか。「こんだけ内出血したってことは、じん帯切れたか傷ついたかしてるだろうけど、レントゲンではわからないので、ひとまず固定しましょう。」と添え木を当てられて、ボクの右足は固定帯でグルグル巻きにされた。
3週間だかグルグル巻きしていたら、右脚は棒っきれみたいになって、全く曲がらなくなった。その間も大学へはバイクで通った。松葉杖で激混みの千代田線に突入する気にはなれなかったし、当時は地下鉄駅にエレベーターなんてなかったので、どうせケンケンするなら、全部ケンケンでいいじゃん…とたぶん考えたんだと思う。実は最初に買ったモトクロッサーが81CR250で、これ左キックだったのね。だから右足ぐるぐる巻きでも、道路の塀に右手でつかまって、左手でアクセル握って左足でキックすればエンジンはかけられた。リアブレーキ使えないけど、元々そんなに使わないし、結構なんとかなった。(去年のネーションズでJ.マーティンが同じことやってるの見てちょっと懐かしくなった。)数カ月そんなして、棒きっれになった右脚をまず曲がるようにして(これがまた痛くて、理学療法士さんには何度となく泣かされた。)、一応社会復帰というか、二足歩行人間に戻ったんだけど、当然、これだと腫れが引いただけで、ある意味なんの治療もされてない。右の前十字じん帯が完全断裂してたと知ったのは、中村友則に轢かれかけて、これはやっぱりちゃんと治さなきゃダメだと再検査してもらった10年後くらいの話で、その間どうしてたのかというと、膝が外れないように暮らしていた。どうすると膝が外れるかは経験上分かるようになっていたので(例えばビーチで野球して、バットに当たればいいけど、とんでもない悪玉を無理に打とうとしたりすると膝が外れます。あと、子供が生まれて、2歳か3歳くらいかな、子供が男の子だとお父さんはお相撲しなくちゃいけなくて、しかも勝ってはならないという基本ルールがあって、無理して負けようとすると膝が外れます。)
そんなガラクタな生活を30年して来ちゃったのだ。1回目の激痛のとき、中村友則に轢かれかけた九州大会の取材をなんとか乗り切って、お友達のI先生にご紹介頂いたT病院のM先生に診てもらったら、触診で「あんた左はなんともないけど、右どうしたのよ?」ってことになって、結果MRIで右の前十字じん帯がキレイになくなっていることが判明して、「長年右を庇ってきたストレスが左に出たんだね。今のうちに再腱しとかないと、歳取って苦労するよ。」と言っていただいたのにも関わらず、その後痛みが消えたので、性懲りもなくガラクタ生活を再開、以来続けて来たわけだ。
で今回は、とりあえず1コーナーに陣取って動かない作戦で行こうかと思ったんだけど、1コーナー行くのに松葉杖があったらいいなぁと思って、田中教世選手のケアをしている荒井接骨院さんを訪ねたら、まぁとりあえずと治療してくれて、そしたら痛みが半分くらいになって、しかも、固定するとか動かさないんじゃなくて、太股の後ろの筋肉とアキレス腱がまっすぐ伸びるようにストレッチしなさいという指示も頂けて、半信半疑だったけど、実践してみたら見る見る歩けるようになって、特に藤沢のテーブルトップのとこの土手の斜面は、ハムストリング? 伸ばすのに最適で、土曜日の午後には「あれ、歩いてるじゃん?」って言われるようになれたのでした。いやはや、すごいぞ荒井接骨院。ちなみに今更ながら気付いたことが。階段でもなんでも、残念な方の足を先に出してたんだすよね。今回、左の残念度が右を上回ったので、常に左が先。これが普段と逆なので違和感満載で笑ってしまったのでした。ストレス貯まるわけだ。左膝君ごめんなさい。
というわけで、金曜日、助っ人Tさんと合流して印刷取りに行ったあと三鷹の荒井接骨院さんで治療してもらって、スポンジのおもちゃ左足でニギニギしながら藤沢向かって、土曜日は多少ヒッコタンコしながら予選取材。朝一、本部の伊勢さんにお願いして、障がい者優先の観戦テントを設置してもらった。予選が終わって気仙沼に行って銭湯入ってその後FさんAさんとピンポンで合流。日曜日、ホテルでAさん拾ってFさんに教えてもらった近道で藤沢向かって決勝取材。終わってTさんを一関駅に届けて、R4沿いの温泉入って北上のセブンイレブン駐車場で作業。月曜日、花巻オートさんにご挨拶…というか、前のコインランドリーで洗濯&談笑。花巻来たらかぷかぷしちゃうだろうってことで、学生時代にはたぶんなかった宮沢賢治の記念館とか見学して、遠野から山越えて大槌へ。釜石でウニ食えないかなと思ってネットで紹介されてたお店行ったら終わってて、待てよと近所のスーパー行ったら、牛乳ビン入りの生ウニが氷水の中に沈んでて、やっぱあるじゃんとパックゴハン買ってレジ横のレンジでチンして、さすがにスーパーの駐車場では風情がないので、ちっちゃい港でウニ丼して作業。黒崎仙峡温泉でお風呂して高田まで移動して復興商店街でビールしてたら電話が来て、ちょっとだけ追加の仕事してビールして就寝。火曜日、石巻あたりで牡蠣でも買えないかなと思ったんだけど、昔箱買いした場外みたいなとこはなくなっていて、というか、港すっかりキレイになっていて、結局目的果たせず、仙台東道路~常磐道でバビューンといわきへ。写真は相馬のSA。野馬追いの展示がありました。もうすぐですね。
※中村友則選手に轢かれかけたと何度も書きましたが、もちろん直後にヒッコタンコ歩いて謝罪に行きました。「どうしたの? 大丈夫でした? まぁ木田さんだから轢いてもいいかなって。」と中村君笑って許してくれました。