INSIDE OUTSIDE MXoNへの道 ep1 「デナシオンと呼ばれた頃」

ネイションズを初めて取材したのは96年スペイン・ヘレス大会でした。この時の日本代表は榎本正則、小田切一剛、川島雄一郎の3人。自分にとって初の海外取材でもちろん自腹ですけど、当時ダートクール誌に全日本のレポートなんかを寄稿していた関係で、チケットの手配やレンタカーでの移動等は全て柴田カメラマンにお願いして、ほとんど連れて行ってもらった感じでした。
なぜ行こうと決めたのか。実は裏じゃないけど、いろんな経緯がありました。日本代表チームにとって、そして自分にとってのネイションズへの道。あれこれ思い出しながら書いていこうと思います

「また鎖国になっちゃうじゃない。」そう訴えた相手は、業界の大先輩で、レースアナウンサーをされていた渡部 仁さんでした。そう「5秒前!!」の名調子が今でも耳に残っている方多いですよね。当時、MXINGの発行準備段階で、そもそもフリーペーパーMXINGは、仁さんから「何かやれんか?」と言われて、新橋のガード下や九州、北海道など遠方移動時の仁さんのトラック車内でのカンカンガクガクの話し合いを経てスタートしたんです。実はその前年、2095年を最後に鈴鹿のMXGP終了。ジャパン・スーパークロスは辛うじて継続していたけれど、アウトドアモトクロスに関して言えば、ある意味唯一世界との接点だった鈴鹿が終わってしまった。鎖国っていうのは、つまりそういう意味です。

「代わりにデナシオンどうですか??」そう仁さんに言ってみたわけです。今でも覚えてます。仁さんのトラックで一緒に向っていた先は、九州大会が行われるHSR九州。ところが仁さんデナシオン(当時はフランス語読みでそう呼ばれていました)のこと全く知らなくて、道中、「MXのオリンピックみたいな大会がヨーロッパで行われているらしい。」とライディングスポーツ在籍時代に佐藤敏光、加世子さんからお聞きした話を、まるで自分が見て来たみたいに熱く、盛り盛りにして語ったんでした。

九州大会の日曜日だったと思います。佐藤健二さんが、「あっキダちゃん!!」って話しかけてくれて、「昨日の夜、エアポートホテルでの会議で仁さんが話してくれたデナシオンなんだけど、目標課題として最適だってことで、選手会が中心になって取り組むことになったからヨロシクね。」…なんという急展開。確かこのシーズンの初めに選手会が立ち上がって、佐藤健二さんと藤秀信さんが代表、吉村太一さんが顧問だったという記憶。そこから急速に話が進んで、全日本の会場で選手会が代表派遣のためのチャリティを開催するなど、1996MXoNスペイン大会への道が開かれて行ったのでした。そしたらボクは、借金してでも行かないわけにいかないですよね。

ここ何年も予選通過すら叶わない日本代表チーム、強いては日本のモトクロスの現状も含めて、ネイションズの話もまだまだ続きます。

写真はスタート前の川島雄一郎選手。1996年スペイン大会はヘレスサーキットが舞台。ロードコースを見下ろす小高い山にアップダウンの激しいレイアウトの特設コースが造ら、ピットからアスファルトコースを横切ってスタートへと向いました。


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