東北地方太平洋沖地震
昨日あたりから徐々に電話が繋がるようになり、メールを含め、こんな木田でも安否を問う連絡を何件も頂戴しました。お気遣いありがとうございます。
MXING webで報告しておりますが、仕事場を置く福島県いわき市の実家で被災しました。画像データの整理をしていたら急に揺れだし、最初は学生時代にMCFAJのレースで手にしたトロフィーが棚から落ちないように抑えていたんですが、さっきまで座っていたワークデスクの上からデスクトップPCがずれ落ち、外では庇から屋根瓦が落下して割れるのを見て屋外に出ました。
外に出ると築60年とかの実家はまるでワカメか地図の温泉マークみたいに揺れていて、倒壊を覚悟しました。長い長い揺れが収まると家は、多数の屋根瓦が落ちて割れ、壁に亀裂が入って落下。柱も大きくずれて、若干傾きはしたものの、なんとか持ち堪えて倒壊だけは免れました。
立て続けの余震で何度も外に飛び出しながら屋内をチェックすると、あらゆるものが床に落ち、吊り下げ式の照明は天井に激突して大破。蛍光灯や食器、人形ケースなどのガラスが砕け、文字通り足の踏み場もない状況でした。
程なく母の病院から戻った父と片付けを開始。丸二日かかってとりあえず屋根の仮補修と飛散したガラスなどを取り除きライフスペースを確保しました。
親類、友人も一通り安否の確認が出来たので、これで一段落となったら、さて今度は自分に何が出来るのかなという思いが湧いてきました。土曜日の夜ニュースを見てたら、福島県では1番被害が大きかった南相馬の避難所で、お年寄りが体育館の板の間に毛布一枚で横になっているのを見て、翌朝、押し入れから来客用の布団を引っ張り出し、ありったけをハイエースに積み込み、現地に向かいました。
辿り着けるかどうか、受取ってもらえるかさえわかりませんでしたが、原発関係の立ち入り制限区域を迂回して目的地に到着すると、避難所の職員さんが迎え出てくれて、ハイエースに満載した布団や毛布、トイレットペーパーなどを喜んで受取って頂けました。
帰り道、燃料に不安があったので、近くの農家で理由を伝え、農機具用の軽油を5リッターほど分けてもらいました。
帰路、川内村という山村を通ると、原発20km圏内から退去してきた人たちの避難所が出来ていました。冷静に考えてみたら布団はここでも使ってもらえた気がするし、南相馬の避難所は、近隣から確保できたかも知れないと思って、貴重な軽油を分けてもらった分、実は軽率な行動だったのかもしれないと反省しました。
帰宅すると、燃料の残量はほぼゼロ。近所のスーパー、コンビニからも商品が消え、軒並み閉店状態。そこに原発の避難勧告、自宅待機指示があり、完全に身動きが取れない状態となりました。
それでも幸いなことに実家は、電気、ガスに加え市内全域で断水している水道がなぜか使える状況。現在は「飲料水にどうぞ」という張り紙をして、家の前にホースを出して使ってもらっています。
原発事故、放射能だけは、本当の状況が伝えられているとは思えないし、今後どうなることやら分かりませんが、どうなると分かってもどうにも出来ない状況なので、余震に揺れつつゆらゆら過ごしたいと思ってます。
以上、震災の顛末の記憶の記録でした。