いわきで
ここ数日のことを、いつまで覚えているだろう。いつ忘れることが出来るだろう。
というわけで、震災後10日を迎えようとしている今日この頃の記憶の記録。
ハイエースの燃料が残り僅かになって、ずっと自宅に籠もっていました。東電第1原発がいよいよヤバくなったら、灯油でも入れて出来る限り逃げようという気持ちはあったけど、一方で、きっと状況が好転してくれると期待もしていました。
ネットでは餓死しちゃうとか凍死しちゃうとか物がないとか見捨てないでとか、みんな必死に助けを求めてくれた。でもボクの所在がたまたまそうなのか、ボクは餓死する気もしなかったし、寒い思いもしませんでした。あのギャップはなんなんだろう。あのとき助けを求めていた人たちは、本当に死んでしまったのだろうか。Twitterにお礼のコメントは見当たらない。津波みたいにあっという間に流されてしまったのだろうか。
サトーエーゴが突然、「今から迎えに行きます。ギリギリ往復できると思います。」と千葉から電話をくれた。全然平気、こっちは大丈夫とありがたく辞退したら、何日もしないうち今度は、「新潟で燃料確保したので、今からいわきに戻ります。」と再び連絡。こっちは大丈夫だから、お前の地元で有効に使ってもらえと返答。
義弟が燃料積んで助けに来てくれた。こっちは避難用だからねと予備のポリタンまで用意して。
秋田の病院の先生が仙台から応援にやって来た。地元の人間がみんな逃げ出してるのにどうしちゃったの?と聞いたら、「だからボクが来たんじゃない。…ホントは目立ちたがりなだけだけどね。」と笑う。
仮補修した屋根のブルーシートを補強した。
直下型地震を初めて経験した。地盤が違うと揺れ方、振動がまるで違うことも初めて知った。
ハイエースの燃料を入手出来たので、被害の大きかった海岸線を見に行った。今後何をすべきなのか、何が出来るのか知りたかったし、誰かに何かを伝えることができるかもしれないと思ったし、それには自分の目で見なければと思ったし、でも大半は好奇心。
帰りに母の病院に。「病院の方が安心だし、みんなで話し合って楽しく過ごそうって決めました。」と看護婦さん。心が通じたのかな。そんなハズもないけど、久々に母が笑った。