なにもない
俺、何に疲れてんだろう。何もしてないのに。そんな震災後3週間目の記憶の記録。
そうそう、辻君が電話をくれた。普段あまり電話とかで話すことがなかったので、ちょっとびっくり。「大丈夫ですか?」「全然大丈夫です。」
その後、立て続けにいろんな人から電話を頂いた。dirtnpさんがリンクしてくれたせいですね。サトケンさんや福本さん、東福寺さんまで。いやはや恐縮です。
で、何をしてたかっていうと、ほとんど何もしていない。
1日支援物資集積所でボランティア作業というのを手伝った。オムツの仕分と場所移動。新生児用、S、M、L、LL。大人用のS~LL、大人用は男女別もあります。あと尿取りパット。親父が「母さんの病院に持っていく尿取りパットが買えないんだよな。マルト(薬品部を持つ地元のスーパー)開かないかな。」とずっと気にしてたんだけど、目の前には親父が欲しがってた物が山のようにあった。
それらの物資が全国から寄せられた「善意」の集積であることはすぐに理解できた。ケース単位で届いたのもあれば、死んだおじいちゃんに使ってたものなのか(まだ生きてたらごめんなさい)、オムツとオムツカバーと尿取りパットとタオルとお尻拭きのセットなんてのもあった。箱は仕分けが簡単でいいけど、バラはサイズごとに1カ所にまとめないといけないんだそうだ。半日オムツを仕分けてた。
その間にもどんどん荷物が届く。たまに老人介護施設のスタッフさんが受け出しに来る。「M5枚と尿取りパッドが10枚」なんてリクエストされる。こちらは仕分けるのが仕事なので、「Mはその真ん中、パットは左端。子供用は向こうから新生児用、S、M、ML、L、LLです。」なんて教えてあげる。水色の白衣(ってのは変ですね)着たスタッフさんが、オムツの山から何枚か抜き取る。「この箱にテキトーに入ってるんで、そのまま持ってっちゃったらどうですか?」とスボラなボクがズボラなことを言ったら、「ダメなんです。1枚ずつチェックすると言われてるんで…。」と水色のスタッフさん。へっ? なんじゃそりゃ。
良く見たら、向こうのブロックでは、水を何lとかずつ数えて持ち出してる。昼休憩から戻るとき水の積み込み手伝って、「多めに持ってって、余ったら隣の施設に分けてやりゃいいじゃん」って乱暴なこと言ったら、それもダメなんだって。なんじゃそりゃ。
そもそもボランティア登録したけど何の連絡も来なくて、市役所にどうなってるの?って確認に行ったら、「連絡が無いってことは人が足りてるってことだと思います。」って言われて、次の日集積所見に行ったらボランティア受付って張り紙があったからドア開けたら「1日でも助かります。」って言われて、その日することもなかったからオムツ仕分けをすることになったのだ。
組織やシステムが効率的に機能してないことはすぐに分かった。でも1日黙って作業した。夕方一段落して、みんな今日は終わりだという。受付で、明日は遠慮させて欲しいと伝えた。帰り道、地元のFM局に寄って制作の人に実情を伝えた。そしたら市の担当者を紹介してくれて、その人を市役所に訪ねて話をした。被災した町で何が起きて何が起きてないのか、少しだけわかったような気がした。
家に帰ったら、ツルハドラッグが開いて尿取りパットを買うことが出来たと親父が喜んでいた。お袋の病院近くのスーパーも営業を再開していた。食品も医薬品も、流通し始めていた。支援物資の目的や意味は、送ってくれた人や団体に悪いけど、既になくなりかけていた。
そんでまた何もしないで家にいた。何もしないって言っても寝てたわけじゃなくて、屋根のシートを補強したり、近所の同級生の実家に様子を見に行ったり、震度5の直下型余震でまたまた外れた柱だか貫だかをジャッキアップして固定したり、しどきにコーヒー飲みに行ったり、なんやかやすることはあった。
家の前に出した水道ホースは、当初大好評だったけれど、その内貰いに来る人が少なくなった。それはそこんちの断水が直ったんじゃなくて、避難しちゃったんだと知った。10日間くらい避難してたけど、水が出たからと戻ってきた家族もいた。
ちょっと早起きして、地元で1番被害が大きかった薄磯と豊間の町を見に行ったりもした。ようやく重機を使った瓦礫(ちょっと前まで家だったんだからそう呼ぶのは心苦しいけど、見た目はやっぱり瓦礫でしかない家の残骸)の撤去作業が本格化し始めたらしくて、わずか30分くらいの間に遺体が二つ出た。昨日の福島民報では20人くらいだった死亡者数が、今日は40人くらい名前が載っていたから、一昨日より昨日の方が作業が捗ったってことなんだと思う。年齢見たらおじいちゃんおばあちゃんが圧倒的に多いけど、若い人もいた。幼児もいた。規模は違うのかもしれないけど、三陸や気仙沼で起きたのと同じ悲しみが、地元にも存在した。
前後して、浄水場で給水車に給水するというボランティアも1日経験した。なぜウチだけ水が止まらなかったのか分かるかもしれないと期待したが、職員さんも詳しいことはわからないとのことだった。でもま、ウチは断水しなかっただけでものすごく恵まれてたなと実感していたので、感謝の気持ちを表すには最高の仕事だ。実際楽だったしね。紹介してくれたボランティアセンターのなんとかさんありがとう。
自衛隊の6トン車だと、1番水圧の高いホースで水入れても15分くらいかかる。その間隊員さんと「へぇ~広島から来てくれたの」「夜はどこに泊まってるの?」「飯は?」なんて話が出来る。みんないい人だ。中には広野のJビレッジに洗浄(線浄?)に行くポンプ付きの給水車なんてものあったけど、半分以上はいわゆる給水車で、うち自衛隊のタンク車は主に学校や病院の給水塔に給水。横浜や東京の水道局から応援にやって来た給水車は、指定された給水所で断水が続いてる地域の正にライフラインになる。ボクが水を汲んできたわけでもないし、川の水を水道にしたわけでもないけど、なんとなく社会の役に立ててる気になれるのだ。しかもホース渡してバルブ開けて喋ってるだけ。楽ちん。この作業は楽しかった。
でも2日目は、「忙しかったら呼んでください。」と伝えて行かなかった。いや、実際には忘れ物を取りにちょっとだけ浄水場に顔を出した。そしたらボランティア頭みたいなもとお巡りさんの八木沼さんが、「今日は昨日の半分きゃ来ね。」と言っていた。もっと暇になったらしい。それだけ市内の断水が復旧したってことなんだろう。
昨日は何してたっけかな。
そうだ、その前くらいに宇都宮といわきを行ったり来たりしてるらしい関志路充毅にも会った。「なんだこんなとこにいたの。毎日通ってました。」「飯食うべ。」で、近くの居酒屋さんへ。昼間はランチを出しているのだ。この辺りでは1番早く店を開けたかな。災害時特別メニューみたいなのがあったらなんとなくその場に似合った気がするんだけど、実際には普通にランチで、ぼくはメニューにあれば必ず頼んでしまうカキフライ定食をオーダーした。
余震は忘れたころにガタガタやって来るけど回数は確実に減った。
夕方、大学同期の北村に電話してみた。
「電話通じたら真っ先に中村から電話があって、携帯復旧したら今度はオマエか。」
「なんか要るのもある? こっちは納豆もヨーグルトもあるぞ。」
「なにもね。そうだ、そっちタバコ買えるか?」
郵便局がもうすぐ締まる時間だったので、電話を切ってコンビニに走った。ローソン入ったらタバコは一人3個までと店員さん。それをゆうパックに入れて投函した。投函してから、北村んちの子供たちにチョコでも入れるべきだったなと後悔。お父さんの友達から荷物が届いて、中身がタバコだけなんて、そんな気の利かない支援物資はあり得ない。ちなみに気仙沼に住む北村は、実家の両親をなくしていた。「死んだんだよな。だって見に行ったら、家も町も何もないんだもの。」
今、ぼくには父も母もいる。明日は何をしよう。